館長連載:第6回私の美術漫歩

By neribi | 2012 年 1 月 26 日

井上靖「星と祭り」琵琶湖北岸十一面観音の旅

    

30台の半ば、作家の井上靖先生(1907-1991)と何度か旅行したことがある。

銀座の文壇バーで知り合って、誘われるままについていった。

その頃の先生は、日本ペンクラブの会長で、ノーベル文学賞にも度々ノミネートされていた。作家活動以外にも何かと煩わされること多く、私のように浅学菲才の輩との旅は息抜きであったかも知れない。

そのうちの一つが、1981年の琵琶湖北岸から京都山崎への旅であった。

先生は、1971年から72年にかけて朝日新聞で「星と祭り」を連載していた。琵琶湖やヒマラヤを舞台に、大自然(宇宙)や時間の永劫に目覚め「生と死」のあり方「命の大切さ」を考えさせる小説だ。

「先妻との間に出来た17歳の娘、同い年の青年と琵琶湖でボート事故に会い湖底に沈んだ。以来7年、遺体は発見されずじまい。琵琶湖はおろか、湖に近づくのさえ恐い主人公。生でも死でもない<もがり>状態の娘と対話し続ける。失意の中で山仲間とヒマラヤの僧院へ観月旅行に出掛ける。永劫のもとでは、人間の営みなど、とるにたらぬ小さなものだと思い至る。やがて、二人の死を悼み、琵琶湖北岸の様々な十一面観音に参り続ける青年の父に触発され、十一面観音の旅を始める主人公。満月の夜、琵琶湖に舟を浮かべて、二人に鎮魂のたむけをおくる。十一面観音たちも、一斉に祈りを捧げてくれているようだ。かくて、死者も生者も、形あるものもないものも、分け隔てなく救われていく。」

その十一面観音を見に行こうというのである。ちなみに、滋賀県には41体ある。青年の父はその殆どに、主人公は13体に拝謁している。 

1981年秋。まずは高月町渡岸寺。国宝・十一面観音立像(平安時代)。2009年東京国立博物館の「仏像展」にも出品されたから、ご存知の向きもあろう。

井上靖先生の言葉を借りる。『渡岸寺の十一面観音を見に行ったのは四月の桜の時季であった。観音堂は信長に亡ぼされた浅井氏の居城、小谷城のあった丘陵がすぐそこに見える湖畔の小平原の一画にあった。像高194センチ、堂々たる一木造の観音さまである。』

戦乱で焼け出され、土の中に埋められ、村人たちが大事に守り抜いてきたと言われている。

「あなたはどうお感じになったか知らないが、気品、颯爽、凛、森厳、官能、そんな言葉がふさわしい佇まいだ。十一の仏面は王冠のようだ。私にはエジプトの王妃にも見える。何、十一面観音をよく知らないって・・・。困ったものだ。そういう読者のために小説の中で分りやすく表現した。」

『十一面観音さまは頭上に戴いた仏さまたちとごいっしょに、それぞれ手分けして衆生の悩みや苦しみをお救いになろうとしているお姿でございます。観音さまは如来さまになろうとして、まだおなりになれない修行中のお方でございます。菩薩さまでございます。衆生の悩みや苦しみをお救いになることを自分に課し、そうすることによって悟りをお開きになろうとしていらっしゃる方でございます。』

とりわけ私には、裏側についていた大口を開けて笑っている面が、妙に印象に残った。何でも悪や悩みを笑いとばそうとするものらしかった。 観音堂の脇には先生の文学碑「慈眼秋風、湖北の寺」が、屹然として立っていた。

次に、渡岸寺から山里深く分け入った石道(いしみち)という集落にある石道寺(しゃくどうじ)。寺というよりも無住のお堂。

ここに、重文・十一面観音がある。(平安時代、173センチ)なかなか見せて貰えないが無理に開けて貰った。

「素朴。優しさ。野の匂い。親しみのある尊厳が漂っている。花輪のような十一面。私には村の娘さんのように見える。」

先生曰く「これは銀座にはいないね。」

三つ目は、賎ヶ岳の麓、木之本から山手に入った鶏足寺。今は廃寺。石道寺と同じ大きさの重文・十一面観音(平安時代、石道寺より100年古い)。

「美しさ。優しさ。貴品。笑み。ふくよかさ。落ち着いた成熟。私には村の内儀さんのように見える。」

更に「これなら銀座のママに稀にいるかな。」

こころ洗われる旅と言いたいところだが、その頃、仏像に興味はなかった。

冗談まで交えながら、懸命に案内してくれる文豪の熱意と真摯な姿勢に、なにやら違うものがそこにあると感じた。

旅の最後に、京都山崎にある茶室「妙喜庵」に立ち寄った。利休が秀吉と対峙した二畳の間「待庵」がある。勿論、国宝で、めったなことでは入れない。そこに何と文豪と二人で入った。

そこで「あなたはこれまでどう生きてきたのか。これからどう生きるのか。」

柔和でいて鋭い眼光で問われているようで、背筋に冷たいものが走ったのを覚えている。

先生は、毎日新聞美術記者としてスタートした。同期に事業部に配属された

小谷正一氏(1912-1992)がいた。手がけた事業「闘牛」をモデルに小説を書いた。それで芥川賞を受賞して世に出た。氏はその後、日本を代表するプロデューサーとして活躍、その生涯が「無理難題プロデュースします」(早瀬圭一著、岩波書店)として、最近刊行された。最晩年に、氏が招聘した幻のピアニスト、ホロビッツのコンサートで仕事の末端に加えて頂いて謦咳に接した。

先生から「忘れ得ぬ芸術家たち」「レンブラントの自画像」「孔子」など署名入りの初版本を頂いた。まさか、晩年、美術に携わることになるなんて夢にも思っていなかった。

ところで、「孔子」の中に「近き者説(よろこ)び、遠き者来たる。」という言葉がある。

十一面観音の庇護の下、練馬区立美術館もかくありたいものだ。 

*次回は、東野芳明「広告はアートを超えたか?」

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」15号、2012,1,1発行より転載

Topics: 展覧会情報 |

壁がきれいになりました

By neribi | 2012 年 1 月 12 日

新年を迎え、今年も魅力ある展覧会を開催していきたいと思いますのでお楽しみに!

さて、練馬区立美術館は年末年始に展示壁のクロスの張替えをしました。

だいぶ汚れが目立つようになっていて、

「飾ってある絵より、壁のシミのほうが気になった・・・」なんて声もちらほら・・・。

壁がきれいになって、第1弾の展覧会は『森井荷十コレクション展』です。

常設展示室で開催している小規模な展覧会ですが、川柳作家であり、サラリーマンでもあった森井荷十(1885~1948)が昭和初期に蒐集した、日本画の掛け軸、版画など小品約100点を展示しています。

江戸の風情が残る東京風景を描いた錦絵、荷十が生きていた時代の近代都市東京を描いた木版画など、なかなか素敵です。

2月14日まで開催中ですので、ぜひ見に来てください。入場無料です。

Topics: 展覧会情報 |

滝瀬源一展 開催中!

By neribi | 2011 年 12 月 4 日

11月29日より「滝瀬源一 スクラッチボードに見る60・70年代の大衆文化展」が開催中です。

 

12月4日(日)には滝瀬さんご夫妻がお見えになり、展示室に並べられたご自身の作品達をじっくりとご覧になっていました。

御年93歳とは思えないお元気さ!ご夫婦の仲睦まじいお姿におもわずツーショット写真をお願いしてしまいました(^_^)

滝瀬さんはスクラッチボードを使い、60年から70年代にかけ大衆雑誌や新聞小説など数多くの作品を手がけてきました。その作品は世相や社会風俗を色濃く反映していて、当時を知る方達には懐かしく、知らない方達には新鮮な感覚を持ってもらえると思います。

ちなみにスクラッチボードとは、厚紙に黒インクが湿布された画材で、表面を針先で削ることで白い線が現れ、版を作らず小口木版のような繊細な線の絵柄が完成させることができます。

展示室には、滝瀬さんが使用した貴重な道具類も展示してあります。

「滝瀬源一 スクラッチボードに見る60・70年代の大衆文化展」は12月25日(日)までの開催で、入場は無料です。

皆様のお越しをお待ちしております!

Topics: 展覧会情報 |

館長連載:私の美術漫歩第5回

By neribi | 2011 年 11 月 17 日

第5回 大下藤次郎「西山峠の白峰」 

中央アルプス、三之沢岳(2846m)頂上直下、ケルン(遭難碑)。毎年のように、花と線香と酒を持ってここに来る。

三人の山仲間を祀ってある。うち一人は、ここから正面に見える宝剣岳から木曾谷側に滑落死した。44年前の2月、蒼氷の張る雪稜だった。

亡くなったのはリーダー。サブリーダーだった、私の力量が問われた。

翌年、その遭難碑を建てた。3mを超える頑丈なものだ。「神よ、護りたまえ。白き高みに憧れる若者を。」の碑文をつけた。

以来、44年、風雪に耐えて、しっかりとしかもけなげに立っている。

ここからは、穂高岳、甲斐駒岳、白峰山(北岳)など、日本アルプスの殆どの山がよく見える。

ところで、明治、大正期で、山を描いた水彩画家といえば、大下藤次郎(1870-1911)、丸山晩霞(1867-1942)だろう。両者とも、小島烏水(1873-1948)が始めた「日本山岳会」に草創期から、名を連ねている。小島の本の装丁や挿絵も両者で担当したものが多い。

美術に携わるようになって初めて、竹橋の近代美術館で大下の「穂高山の麓」(第一回文展入選作)を見た。山とロマンに憧れ、穂高に入り浸っていた青春の甘酸っぱい想いが甦ってきたのを覚えている。

以来、絵の虜になった。「六月の穂高岳」「穂高山の残雪」「甲斐駒ケ岳」、みんないい。尾根筋、谷あい、岩壁の一挙手一投足が懐かしく思い出される。

ここでは「西山峠の白峰」をとりあげたい。

『小島烏水は甲斐の白峰を世に紹介した率先者である。私は雑誌「山岳」によって烏水の白峰に関する記述を見その山の空と相咬む液状の輪郭、朝日を受けては紅に夕日に映えてはオレンジに、かつ暮刻々にその色を変えてゆく純潔なる高峰の雪を想うて、いつかはその峰に近づいて、その威厳ある形、その麗美なる色彩をわが画帖に捉うべく、絶えず機会をうかがっていた』(大下藤次郎白峰の麓 M42年11月)

大下は、白峰を「近く見るには西山峠、遠く見るには笹子峠、この二つがよいようである。」とし、何と明治42年11月、二週間にも及んだ甲州西山温泉への山旅を敢行するのである。鰍沢(北斎、富岳三十六景・石班沢の舞台でもある)からデッチョー(出頂)の茶屋を経て、源氏山の脇を通り西山山脈の尾根に達する。

「甲州西山は白峰の前岳で、早川の東、富士川の西に介在せる五、六千尺の一帯の山脈である。この峠に立ったなら白峰は指呼の間に見えよう。」

そして、遂に見たのである。新雪の白峰を。ところが、これが白峰(北岳・3192m)ではなかった。間ノ岳、農鳥岳と続く白峰三山でもなかった。

荒川三山のうち東岳(3141m)、別名、悪沢岳であったようだ。その日は、峠を越えて湯島に下り西山温泉に逗留した。

翌日、旧道を登り返して、昨日見た山をスケッチする。そして出来たのが「西山峠」。

この絵がなかなかいい。峠の枯れた山毛欅(ぶな)の木越えに遥かに望む新雪の白い峰。木にかかったサルオガセ足許の熊笹、幾重にも変化する空の青とうっすらたなびいた白い雲、山好きにとっては垂涎の一作である。

ちなみに、私の生地は鰍沢の南の村。この峠には足を運んだことはなかったが、峠に連なる山々は、生活の場でもあり度々跋渉している。

ところで、デッチョーの茶屋は、今はない。西山山脈という呼び名も、今は誰もしない。西山峠なる峠は、2万5千分の一の地形図にも見つからない。大正11年、朝香宮殿下が名づけたと言われている足馴峠はある。

足馴峠が西山峠なのか、そこから見た白峰が、実は何なのか、確かめに行くことにした。

9月19日、大下から102年の時を経た山旅。大下が辿った山道は、殆ど廃道になっている。藪をこぎ、熊笹を分け辿りついた尾根。コメツガ、ブナ、カラマツが育ち、合間に見える山。それはまごうことなき悪沢岳。断じて白峰ではない。

足馴峠も廃道で、峠としての面影もない。それが西山峠だと言い切るすべもない。

西山峠とは、大下の心の中のロマンの峠ではなかったか?大下は、西山温泉から早川筋を、平家の落武者の部落「奈良田」までスケッチ旅行している。が、悪天が続き、白峰は見えなかった。

あれほど憧れた、白峰の絵は遂に残されていない。

                            

残念ながら、練馬区美には大下の絵はない。その殆どが島根県立石見美術館にある。

「西山峠」もだ、何故か?

石見は、森鴎外の生地。石見美術館のコレクション方針は「鴎外ゆかりのものを収集する」にある。その鴎外、大正元年(大下没翌年)大下を主人公にした小説「ながし」を書いた。それが縁で、日本アルプスとは遠く離れた石見に収蔵された。

ちなみに、鴎外には画家・宮芳平をモデルにした小説「天寵」もある。宮の作品は、練馬にも多い。2013年は宮の生誕120年にあたる。双方で回顧展が計画中だ。

その大下、雑誌「みづゑ」を発刊、それが現在、「美術出版」(美術の手帖の版元)につながっている。現社長、大下健太郎氏は5代目で、藤次郎の會孫にあたる。

その美術出版社から、練馬で開催し好評を博した「磯江毅」の画集が刊行されている。

最近、妙に縁の不思議を感じ始めている。今回も、山の縁、美術の縁、甲州の縁、鴎外の縁、版元の縁などなどである。

その縁が、この駄文を書かせ、「私の美術漫歩」もう少し続けてみようという気にさせている。

                  

*「西山峠」
高尾山の南、標高500m前後の尾根道に西山峠というのがある。峠とは名ばかりで薄暗く展望は全くきかない。
「大下藤次郎の水彩画」(2008年、石見美術館編、美術出版刊)では、ここを大下が行った西山峠としているが、間違いである。

                   

*次回は、井上靖「星と祭り」琵琶湖北岸十一面観音の旅

                  

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」14号、2011,10,1発行より転載

Topics: 展覧会情報 |

森の住人になった!!

By neribi | 2011 年 11 月 3 日

10月15・16日の2日間、練馬区立軽井沢少年自然の家ベルデ軽井沢にて、

<ベルデ軽井沢お泊りワークショップ>森の住人になろう!! 開催しました!

作家の大小島真木さん、 ダンサーの高須賀千江子さんとともに、仮面を作ったり物語を考えたり。

 

仮面をつけて森に入ることで、より森自体を全身で感じることができたのでしょうか、大人も子どもも素敵な仮面と物語、そして楽しい思い出が生まれました。

当日の詳しい様子は美術館の教育普及記録をご覧ください。

 大小島さんのホームページベルデのブログでもご紹介いただいています。

美術館に響く筑前琵琶のしらべ

By neribi | 2011 年 10 月 30 日

10月29日の夕闇せまる午後4時から<生誕130年松岡映丘展記念コンサート>「琵琶と語りで聴く いにしえの恋ものがたり」を開催しました。

出演は筑前琵琶奏者の川村旭芳さんです。

川村さんは島根県立美術館さんの松岡映丘展コンサートにも出演されています。

[演目]

1 義経と静 悲恋ものがたり

2 源氏物語より『葵と六条御息所』

    

松岡映丘の作品は源氏物語を題材にしたものが多数あり、今回の「生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー」でも多くの作品を展示しています。

川村さんの奏でる琵琶のしらべは、そんな源氏物語を題材にした作品はもちろんの事、それ以外の「やまと絵」達にもピッタリな音色でした。

100名近くお集まりいただいた観客の皆さんもじっくりと聴き入っていました。

琵琶の音色もピッタリの「生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー」は11月23日(水・祝)まで練馬区立美術館で開催中です。皆様のお越しをおまちしております!

Topics: 展覧会情報 |

水谷八重子さんも感激の「生誕130年 松岡映丘」展 開催中です!

By neribi | 2011 年 10 月 18 日

秋晴れの10月8日。現在開催中「生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー」展の特別鑑賞会を行ないました。

式典では特別ゲストとして水谷八重子さんからもご挨拶を賜りました。

水谷さんは、お母様である初代水谷八重子さんがモデルとなった≪千草の丘≫について、「実際の母に比べて美しすぎます。」と会場を盛り上げた後、お母様への想いや作品への感想などをお話ししてくださいました。

特に「この様な展覧会でたくさんの人に見てもらい母は幸せ者です。」と語る姿は、娘としての喜びがあふれているようでした。

また、水谷さんは≪千草の丘≫を取り上げたテレビ東京系「美の巨人たち」 (10月29日放送分)にも出演していますのでお見逃し無く!

    

式典後の鑑賞会でも、やはり皆さん≪千草の丘≫に釘づけのようでした。

≪千草の丘≫以外にも見どころ満載の「生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー」展は11月23日(水・祝)まで開催中です。皆様のお越しを心よりお待ちしております!

Topics: 展覧会情報 |

館長連載:私の美術漫歩第4回

By neribi | 2011 年 8 月 25 日

第4回 音の宝石箱・サントリーホール誕生秘話

    

秘かに狙っていたんです。

プレゼンテーションの機会を。

それまで、周到に準備を重ねていました。

       

1979年秋から、サントリー世界マッチプレイ選手権(ゴルフ)の仕事で度々ロンドンを訪れていました。そこを拠点に、ヨーロッパのコンサートホールや文化施設を見て廻っていました。

そして確信を得たのです。

「サントリーはクラシック専用のコンサートホール、専属オーケストラ、多目的ホール、それに美術館から成る複合的文化施設(カルチャーコンプレックス)を持つべきだ」と・・・。

 そんな気運はありました。

・     創業以来文化・社会貢献活動に熱心

・     サントリー音楽財団設立と音楽賞の実施

・     クラシックのテレビやラジオ番組を提供

・     CMにも音楽や美術を積極活用

・     オーナーの娘婿氏が音楽賞受賞者で新進気鋭(当時)のチェリスト

などなどであります。

 しっかりした考え方といい場所さえあれば、オーナーは踏みきる筈だと踏んでいました。

      

 ときあたかも、森ビルの手による赤坂(A)六本木(R)開発(K)計画の話が洩れ聞こえてきました。森専務(当時・現会長)に会いました。

そしてARK計画(後ARKヒルズ)の中心に、是非とも文化施設を、との思いが強いと直に確認できたのです。

   

 1980年5月、日中国交回復後初の合作テレビドラマ「望郷之星―長谷川テルの青春」(サントリースペシャル)が放送されました。鄧小平氏が題字を書きました。

その制作の時、知り合った中国側プロデューサーに話してみたのです。

「天安門前広場をスタートして帰ってくるフルマラソンを沿道の風景・文化と人々の生活振りなどを交え日本の茶の間に届けられたらどんなに素晴しいか・・・・。」

 それが何と、2年後に「第1回北京国際マラソン」(サントリー協賛)として実現するのです。

そして、人民大会堂での開会式、釣魚台迎賓館での宿泊と国賓級の扱いを受けました。

 その翌年、第2回大会。

 

以下「新しきこと・面白きこと、サントリー佐治敬三伝」(廣澤昌著、文芸春秋2006刊)から転載。

 昭和57年9月、第2回北京国際マラソンの開催に合わせ、敬三は前年に続いて訪中し釣魚台迎賓館に泊まった。滞在中は、日本でのようにスケジュールが過密ではない。

ぽっかりと空き時間ができて、スタッフも敬三ものんびりと北京の秋を楽しんだ。

午後のそうした時間に、敬三は宣伝部の若林覚から声を掛けられた。

「なんや、若ちゃん」と怪訝な顔をする敬三に、若林は「お見せしたいものがあります」といって部屋に案内する。そこにはサントリーの幹部役員がいた。これだけ揃うと重要な決定はできてしまう。何をこやつは企んでおるのか。敬三はギロッと若林を睨んだ。

若林はボードを広げスライドを使い、企画書の説明をはじめていった。

これが、サントリーホールの最初のプレゼンテーションであった。

(中略)

コンサートホールだけでは採算が取れないとして、クラシック専用ホール、多目的ホール、美術館から成るカルチャーコンプレックスの案をまとめ、これを敬三にぶつけたのである。

敬三はこの時「おもろいやないか、やってみなはれ、但しフィジビリティスタディイをしっかり」と答えた。

  

 その後検討を重ね、結局クラシック専用ホールのみでいこうということになりました。

「世界一美しい響きを求めて」のコンセプトのもとに、サントリーホールと名づけられたのです。

 5年間の準備期間を経て、1986年10月開館。オープニングは満座が静まり返る中、佐治敬三館長がパイプオルガンの演奏台に上り、静にしかし力強く「A」のキーを押したのです。

 アドバイザーであったカラヤンは、この時体調を崩し来日できませんでしたが、1988年始めてサントリーホールの舞台に立ちました。そしてそれが、日本での最後の指揮でした。

この時のカラヤンの言葉

「まるで音の宝石箱のようだ」

 そしていまサントリーホールは

ウイーン  ムジークへラインザール

アムステルダム  コンセルトへボウ

ベルリン  ベルリンフィルホール

ニューヨーク  カーネギーホール     

 と並んで、世界屈指のホールと称されるに至りました。

 2009年11月、来日中のオバマ大統領はアジア政策に関する演説会場に、国会議事堂でも何処でもなくサントリーホールを選んだのでした。(アメリカ大使館に近く、警備しやすいということもあったようですが・・・。)

 サントリー美術館には、鎌倉時代北条政子が化粧箱として使っていたと伝えられている「国宝、浮線稜螺鈿蒔絵手箱」がありますが、サントリーホールはまさに「世界の至宝、音の宝石箱」とも言い得るのではないでしょうか。

 草創期に関与できたのは(実は提案しただけで、殆どは後人の努力による)、私の宝となっています。練馬に来て1年、小さくてもきらりと光る宝を少しずつ積み上げていきたいものです。

加油!加油!とご支援頂ければ幸いです。

            

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」13号、2011,7,1発行より転載

Topics: 美術館情報 |

ミュージアムグッズが完成しました!!

By neribi | 2011 年 8 月 7 日

このたび練馬区立美術館として初めてのミュージアムグッズが完成しました!

デザインは新しく完成したロゴ・マークを使用していて、種類はパーツホルダー、ノート、コットンバックの3種類です。

パーツホルダー(400円)はA5サイズがすっぽりと入る大きさです。仕切りが2つあるのでプリントを分けて収納するのに便利。

これさえあればきっとあなたもイケテル学生に d(゚-^*)

                

ノート(400円)は10cm×15cmで上着の胸ポケットにもすっぽり入りる大きさです。会議中や出先でメモをとるのにピッタリ。

これさえあればきっとあなたもイケテルビジネスマンに d(゚-^*)

                

コットンバック(800円)は30cm×35cmでA4サイズの雑誌もすっぽり入る大きさです。買い物のお供としてエコバックにも最適。

これさえあればきっとあなたもイケテル買い物名人に d(゚-^*)

               

               

ミュージアムグッズは美術館受付で好評販売中です!練馬区立美術館にお越しの際は是非記念にミュージアムグッズをお買い上げ下さい。

Topics: 展覧会情報 |

磯江毅展関連イベント 逢坂剛講演会「スペインの昨今」

By neribi | 2011 年 8 月 3 日

台風が通り過ぎた後、一時の厳しい暑さはなくなりましたが、それでもまだまだ蒸し暑い日が続く中、7月23日に作家・逢坂剛さんの講演会が行われました。

これは現在開催中の「磯江毅展」の関連イベントとして催されたもので、美術ファンだけでなく、逢坂剛さんのファンがたくさん集まりました。

逢坂さんは若い頃からフラメンコギターにのめりこみ、プロはだしの腕前であることは、知る人ぞ知るところです。

そんな逢坂さんが初めてスペインを訪れたのは、1971年、20歳代後半のことでした。

グラナダに行ったとき、食事に入った店で、ギターを弾いていたおじいさんがあまりにも下手だったので、「俺に弾かせろ」とギターを借りて、演奏を始めたそうです。外国人など珍しかったと思われる時代に、いきなりフラメンコギターを弾きこなす東洋人が現れて、スペインの人たちもさぞかしびっくりしたことでしょう。するとその場にいたフラメンコの歌手が、「俺がカンテをやるので、伴奏をやれ」と声をかけてきました。

カンテ(歌)に合わせて伴奏をするのは初めての体験だったそうですが、意外にも、とてもうまくいったそうです。

スペイン語で「ドゥエンデ」という言葉があって、「精霊」とか「鬼」という意味だそうですが、アンダルシア地方では、「美の女神」「歌や踊りの神秘的な魔力」というような意味で使われています。

逢坂さんは「一芸に打ち込んでいると、ドゥエンデが来る瞬間があるというが、あの瞬間がそうだったのかもしれない」と回想していました。

当時のスペインはフランコ政権末期でしたが、スペインの人たちは人情が厚く、古き良き日本を思わせるものがあり、ますますスペインが大好きになったそうです。

磯江氏がスペインに渡ったのは1974年。その頃のスペインがどんな様子だったのか垣間見える楽しいお話の数々でした。

当日はギターの演奏はありませんでしたが、いつか機会があったら美術館の中央ロビーで演奏していただきたいものです。

ところで、逢坂さんはいつでもギターが弾けるように、爪のお手入れを欠かさないそうです。最近若い女性に流行りのジェルネイルがとても良いそうですよ。

練馬区立美術館では現在「磯江毅=グスタボ・イソエ」展を開催中です。磯江氏の作品もドゥエンデが宿っていると思わせるものばかりです。10月2日まで開催していますので、ぜひご来館ください。