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館長連載:第11回 私の美術漫歩

半田也寸志 写真集「MIGHTY SILENCE 」(イタリア、スキラ社) 発刊に寄せて

半田也寸志さんとは、かれこれ20数年来の知己である。
出会った頃、氏は広告やファッションの新進気鋭のカメラマ
ンであり、私は企業の広告制作の責任者であった。その作品
には、独特の質感と深みがあり、物であっても、人であって
も、氏のカメラの前に立つと、たちどころに存在が見すかさ
れてしまうような凄みがあった。相手が本物であればあるほ
ど、深みをたたえ輝きを放つ。だからクオリティとストーリ
ーのある商品、生き様のしっかりしたタレント(モデル)でな
いと頼めなかった。
その後、私は広告からアートの世界に転身したが、氏は何か
につけ気になる存在だった。一昨年6月、久方振りにやって
きて「是非見てもらいたいものがある」と言って、やおら取り
出したのが今回の一連の作品だった。
ここ数年は、広告の仕事の傍ら、アメリカ各地の近・現代の
「鉄の建物」の幾何学的な紋様や無機的な光に魅せられ撮り
続けていたという。
3・11を聞き、すぐ帰国、いてもたってもいられず6500万画
素のカメラを担いで単身現地入りした。20日後のことだ。
写真については門外漢で、軽々なコメントを挟むのは差し控
えたいが、一目見て「痛い」と思った。
五臓六腑がひりひりする。彫刻家・詩人、高村光太郎(1883-1956)
のエッセイに「触覚の世界」というのがあるが、触覚は最も幼
稚で根源的な感覚であるそうだ。
美術であれ音楽であれ、優れたアートは触覚を刺激する。
写真のコピーを知り合いの若い女性に見せた。「帰らなくっちゃ」
と言ったきり絶句した。
被災地大船渡の出身だった。その後、1週間ほど帰って出て来
た。いや、出て来れなかった。故郷の自然、街、人の有り様
に、気分が塞いだまま立ち直れなかったのかもしれない。
人の心をふるわせ影響を与える、何とも罪作りな「痛い」写真だ。
平安時代に最澄(766-822)が開いた仏教の教えに「草木国土悉
皆成仏」というのがある。生きとし生けるもの全てに仏性が
あり、仏に成れる、というものである。近くに、世界遺産「中
尊寺」がある。1105年から100年に渡りこの地を治めた、藤
原清衡、基衡、秀衡三代により、大規模な造営がなされた。
戦乱で亡くなった全ての霊を、敵味方の別なく慰める仏国土
(浄土)を建設しようとするものであった。本尊は、西方浄土
にいるという阿弥陀如来だ。
京都の知恩院に、国宝「阿弥陀二五菩薩来迎図」がある。如来
を中心に二五菩薩が衆生を救い仏国土(浄土)に導くため来迎
するというものだ。
氏の写真に、人は写っていない。しかし、私にはその1枚1枚
に二五菩薩の来迎が見えるような気がした。草木国土、生き
とし生けるもの全て、瓦礫ですら、「痛み」から救われるのだ。
一連の作品はその後、国内で「20DAYS AFTER」として出版
され、作家伊集院静氏も「一人の写真家が震災という歴史の
中に立ち、何が私たちに起こったのかを告げてくれている。
それは黙示録のように地上の憂国の滅亡を叙述しているので
はなく、復興への光を見いだそうとする救世の写真集である。」
との巻頭言を寄せている。


国外では、ヨーロッパで最も権威ある美術出版社「スキラ社」
(イタリア)で注目され、「MIGHTY SILENCE-Images of
Destruction」として全世界に向けて出版された。
スキラ社の手がける日本人アーティストは稀で、最近のアー
ティストで、知る限りでは千住博氏、安田侃氏のみである。
3月11日、ニューヨークで出版記念会が開かれ、「ウォールス
トリート ジャーナル」「ニューズ ウイーク」などで掲載された。
しかし、どうだろう。「二五菩薩来迎」だの「救世の写真集」だの
買い被りすぎてはいないだろうか?
震災国・日本に生きる一人として、古くから氏を知る一人として、
返って過剰反応し過ぎたのではないか。くだんの女性の反応
も生まれ育った故郷の惨状を見せられたからであり、誰の写

真でも同じ反応だったのではないか。寧ろ、命からがら避難し
た被災者のアマ写真の方が迫真性があったかもしれない。
あらためて、日本を代表するアート系カメラマン18人の震
災写真を見てみた。クオリティの高低はともかく、それぞれ
のテーマ性が浮かんでくる。

「猛威をふるった自然とその後の静けさ・穏やかさ」
「直前まであった人々の暮しのにおい」
「打ち倒されだ巨大な建造物」
「捜索の傍らで進む復旧」
「立ち入り禁止の原発地域」
「喪失と立ち直りの家族」
「故郷の今・昔」などである。

しかるに、氏の写真には明確なテーマ性があるのか。確かに、
アート系のカメラマンの中では、誰よりも早く現地に行った。
衝動に駆られるままに夢中でシャッターを押しただけで、こ
れといったテーマ性はないのではないか。アート性も、ある
としたら、6500万画素の高精細カメラに助けられてのことで
はないか。報道にしては遅い。アートにしては浅い。いかにも
中途半端だ。そもそも、震災が、人の不幸がアートであるもの
か。その客観性こそ罪悪だ。スキラ社の出版も「人類の歴史に
残る大震災」の写真であったからであり、氏の作品の哲学性、
アート性、テーマ性が認められた訳ではないのではないか。
冷静に立ち返ると、こうしたシニカルな見方もできなくはない。
しかし、馴れ親しんだ故郷の写真を一目見て、生き方を変えざ
るを得なかった若き女性、一連の写真に「痛み」や「仏性」を感
じ、立場もわきまえず、手放しで賛辞を送った私。明らかに、
今、そこにあったその写真が、人に影響を与えた、これがアー
トでなくてなんであろう。と未だ評価は行きつ戻りつしている。
ところで、前述した「鉄の建物」をテーマにした氏のもう一つ
の写真集「IRON STILLS」も国内で、ADP社から出版された。
葛西薫氏装丁の71点を所載する美装の大判写真集だ。時代を
超えて堅牢たる佇まいを見せる鉄の遺構が堂々たる存在感で
迫ってくる。


日本人は、自然と一体になって生きてきた。しかるに、欧米
人は自然と対決して文明を切り開いてきた。その象徴が鉄だ。
しかし、鉄ですら自然の猛威の前ではひとたまりもない。「人
間がつくってきたものは、ほんとうにこれでいいのか?」という問
いを投げかけられている今、2つの写真集「MIGHTY SILENCE」
「IRON STILLS」の意味するものは何か。偶発的同時上梓を
僥倖と捉え、作家も鑑賞者も考えを深めてみてはどうか。
何か事が起きた時に、やみくもに無作為な衝動に駆られたり、
無防備な突出に出るのも、時として結構だ。しかし、その根底
にはいつもある種のテーマ性が流れていて欲しいものである。
氏の場合、それは人間共通の「痛み」であったり、日本人の「仏
性」であったり、更に文明史的には「人間がつくってきたものは
本当にこれでいいのか?」という絶え間ざる問いかけであるよ
うな気がする。
そうすることで、作品は、従来のクオリティに加えて、一層の
明確さと深みをたたえ、多くの人々の心をとらえ、後世に残っ
ていける真に「救世のアート」として昇華していくことができ
るのではないか。次の写真集の上梓が待たれる。 【若林覚】
<追記>
そうそう、テーマ性・アート性などあるものではない。かくいう私など
皆無だ。漫然たる日々の繰り返しだ。しかし、時には問いかけたいも
のだ。私の、あなたの、そして美術館のテーマ性・アート性とは何か。
*「MIGHTY SILENCE(スキラ社)」巻頭言を加筆修正しました。

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」20号、2013.6.1発行より転載

館長連載:私の美術漫歩

 

三井寺がつなぐもの 

 

三井寺の中でもとりわけ高台にあるのが法明院。琵琶湖を一望にできる。
その脇道をちょっと入ったところにフェノロサとビゲローの墓がある。

フェノロサは、1878年(明治11年)大森貝塚を発見したモースの推薦で来日、東大で哲学、政治学を教える。日本美術の価値を再発見、研究・収集に努めるとともに、美術教育、美術行政に関わる。法隆寺夢殿を開け、救世観音像を調査したのは有名な話。ビゲローは、ボストンでモースの日本に関する講演に感銘、1882年(明治15年)に来日。富豪の貿易商の息子で外科医。フェノロサが組織した鑑画会(狩野芳崖、橋本雅邦など)をパトロンとして支える。

フェノロサ(1853-1908)

時あたかも、西洋崇拝や廃仏毀釈の真只中、困窮を極める古社寺の宝物を、調査の傍ら、購入。大阪の古美術商「山中商会」に残る逸話「売りに出た美術品を店内に所狭しと並べ、番号と値段を付けて片っ端から買い捲る。その場で荷造りしボストンへ送った。」(三井財閥総師団琢磨談)

貴重な日本美術を流出させたとも、お蔭で体系的な研究がなされ、散逸、破損されないですんだ恩人とも言われている。

その二人の墓が、何故法明院にあるか?

フェノロサは、教え子岡倉天心の紹介で住職桜井敬徳に私淑し、その導きで受戒し、天台寺門宗に帰依している。院内には、池大雅や丸山応挙の襖絵と並んで、フェノロサの書斎がそのまま残されており、愛用の品々が置かれている。

フェノロサの墓(法明院)

     
1908年、55歳でロンドンで客死、遺骨は1年後、シベリア経由で日本に送られ、法明院に葬られた。その全てをロンドンに進出していた「山中商会」が請け負った。ビゲローは、1926年76歳で没。分骨がボストンから運ばれ、フェノロサの隣に墓が建てられた。

  二人のコレクションを中心とした「ボストン美術館-日本の美術至宝」展が、昨年3月20日から東京を皮切りに名古屋で開催、今年は福岡、大阪へと巡回する。

国内にあったら、国宝・重文級の名品揃いだが、なかでも「吉備大臣入唐絵巻」(平安後期)は圧巻。岡倉天心の後、東洋美術部長になった富田幸次郎が、1932年購入、ボストン美術館所蔵となった。遣唐使吉備真備は在唐中幽閉され、鬼となった阿部仲麻呂に導かれて「文選」「囲碁」など難題を解き帰国を果たすというストーリーだが、絵が面白い。

吉備真備は空を飛んだり、碁石を飲み込んで体内に留めるなど超能力の持ち主だ。登場人物の一人一人が軽妙洒脱で活き活きとしている。全巻コミカルタッチで、「鳥獣戯画」と並んで漫画の源流の一つと言っていいだろう。

ボストンのこの購入をきっかけに、日本を代表する美術品を容易に海外に流出させてはならじと1933年「重要美術品等の保存に関する法律」が制定され、海外輸出には文部大臣の許可がいることになった。1950年「文化財保護法」が施行され、新たに重要文化財・国宝が指定されることになった。旧法は廃止されたが重要美術品はそのまま残った。その数は6000件を超えると言われている。

話を三井寺に戻す。

三井寺は壬申の乱で敗れた大友皇子(天智天皇の子)の菩提を弔うため、その子大友与多王が1300年前に創建し、858年唐から帰国した円珍が再興した。

三井寺は実に多くの国宝、重文を持つ。(国宝10件、重文42件)その殆どを見て頂こうと「国宝三井寺」展を2008-2009年、大阪市立美術館、サントリー美術館、福岡市立博物館で開催した。開祖智証大師(円珍)帰朝1150年、勧学院障壁画狩野光信生誕400年、フェノロサ没後100年を記念してのものだ。

秘仏が寺を出たり入ったりする度、荘厳な法要が丁重に行われ、太りじしで短足の身にとって、長時間の正座はまさに難行・苦行のお勤めであった。

三井寺を代表する宝物には、智証大師坐像(お骨大師)、不動明王像(黄不動)、四季花木図(勧学院障壁画、狩野光信)などがあるが、新羅明神坐像はひときわ異彩を放っている。円珍の唐からの帰りの船、朝鮮沖で「汝の修行を加護するぞ」と言って、夢もとに現れたとのこと。眉根を寄せ、目尻を下げ、額の深い皺、長い髭、畏怖を感じさせる表情だ。

智証大師坐像

智証大師坐像(三井寺蔵)

          

白く塗られた顔、カラフルな色彩と紋様が施され、エキゾチックですらある。

柔らかな手・指、丸い肩からは優しさが滲み出ている。

源義家の弟、義光はこの新羅明神坐像の前で元服式を行い、新羅三郎義光と名乗った。後三年の役で活躍後、常陸の国などを治め、三井寺に没す。甲斐源氏(武田、加賀美、小笠原、南部)を子孫として残す。文武に秀で流鏑馬などの武術、小笠原・武田流などの礼法の祖でもある。

小生、甲斐源氏の地に生まれ、ことさらこの異形の神に心ひかれたのかもしれない。

さて三井寺、開基以来叡山(天台山門宗)との争いが絶えず、度重なる焼き討ちにあったり、秀吉から闕所を命じられたり廃寺の危機にあうが、本尊や宝物は守られ、その都度不死鳥の如く甦っている。三井寺162代長吏(管長)福家俊明氏、「顕(教)・蜜(教)・修験」を究め、「済世利人」(世を救い、人を利する)の天台寺門の教えを先導する穏やかな中にも厳しさ・鋭さを湛えた方だ。何としてでもこの展覧会を成功させたかったのではあるまいか。

大阪市立美術館、サントリー美術館(8万人来館)、福岡市立博物館の展覧会の成功を見届けるように身罷られた。肺癌を患っていたが、おくびにも見せず全ての法要を物の見事に取り仕切った。

昨年9月7日、三井記念美術館「近江路の神と仏-名宝」展内覧会、「不動明王、八大童子像」など、三井寺の宝物10件も出陳されていた。帰りがけに懐かしい方にあった。福家俊彦氏、俊明氏の長男である。今は、三井寺の執事長をしていると言う。
懐かしさのあまり、ついつい「福家さん、サントリーを卒業して、練馬区立美術館の館長をしている。サポーター向けの会報誌に<私の美術漫歩>を掲載している。ブログにも転載している。三井寺展のこと、書いていいだろうか。画像を使っていいだろうか。」と言ってしまった。

三井寺展をやったとはいえ、専門的な事は殆ど学芸員任せ、今回も通り一遍の上っ面をなでるだけの漫歩的駄文になってしまった。漫歩も、もう10 回である。辟易している諸兄には、読み飛ばして頂いて一向に構わない。

但し、以下の後記にはご注目頂きたい。 

<後記>
今年3月で館長としての任期は終わる。当初の目論見も果たせないままだが、やっと肩の荷が下ろせる、と思っていたら、更にもう少しとのこと。うれしい誤算である。逡巡したが、有難くお受けすることにした。で、後2年程、お付き合い願いたい。

                    

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」19号、2013,2,1発行より転載

館長連載:第9回私の美術漫歩

版画家・吹田文明、「写楽は我が先祖?」 

 

「うだつがあがる」という言葉の由来をご存知だろうか?

「うだち」とは、江戸時代、隣家の境に建てた小屋根付きの袖壁を言うらしい。

卯字型に張り出したところから「卯建ち」と言い、防火と装飾を兼ねたとのこと。お大尽でないと建てられず、装飾性と威容を競い合った。

そこから転じて、「うだつがあがる」は、立身出世、成功を意味することとなった。未だに、さしてうだつがあがらぬ小生はその「うだつ」を是非見てみたいと思っていた。

今年5月、徳島県鳴門市、大塚国際美術館での「全国美術館会議」参加を機に、今でも「うだつの」の街並みの残る美馬市脇町を訪れた。

江戸時代、阿波は名だたる藍産地。とりわけ、田沼意次時代、その藍は日本中に行き渡った。多くの藍大臣が生まれ、「卯建ち」づくりを競い合った。

街並みを歩くといかにも水戸黄門一行でも出てきそうなタイムスリップ感に襲われる。(現に、TVドラマのロケも行われた。)

同じ時代、草木染の木の皮の織布「阿波太布」も「日だまりのように、ほっこりとぬくもり、目で見るよりも触れて楽しむ。」と、大奥女中方に献上され、もてはやされた。その産地は、平家落人伝説の残る、剣山・祖谷渓である。

脇町の後、そこに向かった。剣山は1955m、四国第二の高峰であるが、登山路もよく整備されており、ハイキング気分で登ることができる。ただ、登山口までが長い。延々狭い山道を車で行く。谷は深い。蔓で編んだ「かずら橋」なども残る。

阿波藩、蜂須賀家は外様である。何度も、とり潰しの危機にあうが、それを救ったのが「藍」であり、「阿波太布」であったようだ。

そこに絡んで「写楽」がいた、という奇想天外な物語を紹介する。

版画家、吹田文明氏(徳島県生1926-)は、1967年サンパウロビエンナーレ版画部門で最優秀賞を受賞した。棟方志功、浜口陽三に次いで、日本人では三人目だ。長年、都内の小学校で図工の先生を務めながら、ラワン材を素材に電気ドリルで穴をあけ、水性絵具に加え、油性絵具を使い、プレス機で刷るという独自の木版画を完成させた。ラワン材のマチエール(メゾチントに近い)にダイナミックでカラフルな、それでいて奥行のある絵柄から「花火の男」と呼ばれた。最近の作品は、詩情性を湛え、哲学的、宗教的深みを増している。

2006年には、世田谷美術館と徳島県立美術館で、回顧展が開催された。

その吹田氏、2年前、練馬区立美術館「稲垣仲静と稔次郎」展に来館された。

稔次郎のファンで型絵染に興味をそそられたとのこと。その時、お会いできなかったが、後日図録をお送りしたら、お礼にと「写楽・大江戸の華」(H 13徳島新聞社 羽里昌 著)が送られてきた。

手紙には「写楽は我が先祖というフィクションです。ご笑納ください。」とある。

国際浮世絵学会では、斉藤月岑「増補浮世絵類考」や三世瀬川富三郎「緒家人名・江戸方角分」の記載もあり、写楽の正体は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛ということになっている。また新説が現れたかと早速手に取ってみた。

以下、その梗概である。

蜂須賀十代「阿波守重喜」は秋田佐竹壱岐守義道の四男、正胤である。藍の専売制、新田開発など藩財政立て直しに取り組んだが、その革新的、手荒い手法は多くの敵をつくった。時の権勢、田沼意次に訴えられ「藩政よろしからず」と、32歳で隠居を命ぜられた。その重喜に取り立てられ、改革を支えたのが、熊野屋与右衛門、お銀主を務める。次男が猪左衛門知致、熊野屋には旅の絵師が度々逗留、見よう見まねで絵を描く。

また、阿波は相撲大国。子供の頃から滅法強くて、本物の力士を投げ飛ばす程。

長じて、大藍師の娘、お貞を娶り分家、重喜のお側勤めをする。

土佐室戸岬に近い、日和佐浦にオロシア船が漂着、凸面鏡が重喜に献上され、デフォルメされた顔の写しに魅入られる。やがて、猪左衛門に下賜され愛用の品となる。

田沼意次失脚。その落魄振りを見ようと、重喜、隠密に江戸に行く。阿波太夫として遊興。吉原で、秋田藩佐竹江戸留守居役平澤常富(朋誠堂喜三二)にでくわす。山東京伝、蔦屋重三郎に紹介される。

「文武二道万石通」(喜三二作、喜多川行麿画)がご政道を批判したかどで絶版、喜三二、筆を折る。

重喜、遊興振りが問題になり、国元の小屋敷に蟄居。

猪左衛門、女房お貞、娘お国、相次いで没。気鬱に。

重喜「江戸に行け、芝居見物でもして好きな絵を、流派に囚われず自在にかけ。上方の風来絵師、東洲斎写楽と名乗れ。但し、阿波の名は出すな。京伝に会え。」と薦める。秋田蘭画の佐竹の出、ということもあり、絵心があったのかもしれない。

猪左衛門、お貞の7回忌まで帰ると約す。

江戸への途中、上方で阿波屋徳兵衛(お貞の叔父、育ての親)に会う。

上方、江戸の藍商筋支援の約定を取り付ける。

立作者、並木五瓶、立役者沢村宗十郎、に紹介される。

京伝が蔦屋へ連れて行く。阿波太夫、重喜をかいた絵を見せる。オロシア鏡風デフォルメだが、よく特徴をとらえている。蔦屋、仰天する。きれいにかくのではなく、真と感じたものをかく、これが写楽。今迄にない役者絵を、半身もので、ということになる。

「花菖蒲文禄曽我」(澤村宗十郎、大岸蔵人役)をもとに、最初の版下11枚が仕上がる。写楽、「売れもせん芝居絵で丸損させるわけにもいかん。」と自腹を覚悟していたが、蔦屋「虚の中に実がある。一生に一度、儲けを度外視した錦絵、黒雲母摺で。」と決断するも、この時既に、開版料、初摺料は阿波藩筋、藍商筋から用意されていた。

松平定信「寛政の改革」を推し進める。華美・贅沢・好色の一層の取り締まり。

京伝「仕掛文庫」「娼妓絹籭」「錦之裏」(版元蔦屋)、遊蕩・卑猥の好色本として発禁。

京伝、手鎖50日、蔦屋身上半減の闕所の荊に処さる。

お家の安泰を願う阿波藩、「危なくなったら、江戸の外へ出せ。正体を知られるな。場合によっては斬れ。」との命を出す。

阿波藩儒から、幕府昌平黌教官に転じていた柴野栗山、定信に「あれは華美ではない、わる癖を写した似面絵。立役、実悪、道化、端役も平等に扱っている。芝居の分らぬ他所者の手によるもの。」建言、面白がられこそすれ、譴責されなかった。

初摺当初はそれほど江戸市中に出回らなかった。その理由は

・重喜の命を受けた大阪阿波座、大量に買い付け、全国に向けた藍商いに土産としてつけた。

・大奥女中、芝居見物などできない、しかも男ひでり。歌麿流美人やきれいな女形に妬み、嫉み。かえって、男の臭いを感じとり大人気に。

・役者本人による大枚取得。立役、汚な絵、流布させたくない、端役、嬉しい絵、励みになる。

にあったようだ。

ところで、斎藤十郎兵衛。阿波藩のお抱え能役者。京伝が写楽に紹介した。

写楽、八丁堀六軒長屋。十郎兵衛八丁堀地蔵橋長屋、目と鼻の先、芝居好き、絵心あり、写楽の長屋で、絵をかくのを見ていた。いつか、本人と見まごうことなき絵がかけるようになっていた。

写楽、最初大首絵、寄りの世界。やがて芝居ごと投網を打つ引きの世界、芝居好きでないとかけない。そこに絵の腕を上げた十郎兵衛がいた。

写楽、女房お貞の七回忌が近づき阿波へ帰る。その後、十郎兵衛が暫くかいた。

つまり写楽は二人いた、という説である。(但し相撲絵は、一貫して写楽か?)

しかし疑問に思うことがある。同じ阿波藩お抱えの身。しかも猪左衛門、お銀主を務めるお側商人、重喜はじめ中枢にも近い、それがなぜ、京伝に十郎兵衛を紹介されなければならないのか?

さて、その写楽・吹田猪左衛門知致から数えて七代目が吹田文明氏である由。

「写楽、大江戸の華」には系図も載っている。

重喜、猪左衛門、文明氏、実在の人物だけに説得力がある。

写楽、文明氏ともに、新境地を切り開いた革新的版画家である。

更に、大首絵にでも登場しそうな偉丈夫な役者顔の文明氏。

「この物語、全て偶然の所産。うまく仕立てられたフィクション。」と一顧だにしないのは、あまりにもロマンを解さなすぎる。

小生、たまさか美術館長の職にあるが、もとより美術史の研究家ではない。

まして浮世絵の専門家でもない。単なる新し物好きな浮世絵ファンでしかない。

そのファンからの新・珍・奇説の紹介である。

狂おしいまでの暑かった夏を偲び、ウイスキーグラスでも傾けながら、暫し夢とロマンに浸っていただければ幸いである。

ところで、練馬にはどんな「うだち」を建てることが出来るだろうか?

  

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」18号、2012,10,1発行より転載

  

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吹田文明氏に上記原稿をお送りしブログ転載の許可をお願いしたところ、下記返信をいただいたので本人了解のもと紹介します。

<吹田文明氏からの返信>

「写楽・大江戸の華」を美術漫歩で取り上げて頂き、有難うございました。

ペンネーム、羽里昌君は、徳島県阿南市の出身で、富岡小学校の私より2級ぐらい下でした。戦後、ハンセンシ病となり施設に隔離されました。ハンセンシ病は戦前、癩病とかレプラと言って忌み嫌い恐れられ、隔離病棟に入れられ出産も許されませんでした。その有り様を書いた「命の初夜」、映画「小島の春」などで一躍有名になりました。

戦後、既にヨーロッパでウイルスが発見され特効薬も出来ており、感染力も弱いということが分かっていたにも拘らず、厚生省は戦前のまま放置したのです。

国境なき医師団の努力により、漸く施設を出て生活が出来るようになりましたが、古里も肉親も全てのものを失った羽里君にとっては、書くことしか自由な世界は残されなかったのです。

ある日突然、彼から「その後の坊ちゃん」という1冊と共に、自分が小説家として頑張っていることを、私に知らせてきました。夏目漱石のあの有名な「坊ちゃん」の主人公が、旧制富岡中学に赴任していたことが、職員室の金庫の中から履歴書として発見された事から始まる物語です。

彼にとって、帰ることの出来ない懐かしい富岡の町内を、私の本家を中心に書いています。

彼が子供の頃走り回った思い出の場所を、主人公も駆け巡ります。ユーモアのある文章の裏に彼の望郷の悲しみが見えるようでした。

電話をもらって「羽里君はハンセンシ病をやったんだろう・・・」「特効薬も出来て何ということもないことが分かっているのだから・・・」とあけすけに言う私の言葉に、電話の向こう側で厚い友情に言葉の詰まる彼がいました。

早速、彼の小説を、徳島新聞で社長をしている友人に紹介、夕刊に連載小説を書くことが決まりました。「紅燃ゆる」という題名の徳島全県下の学徒動員の記録でした。これは大好評でした。学徒動員に参加した人達が定年を過ぎた頃で、大阪、神戸と関西に嫁に行った人、東京に来ている多くの人達にも「尼崎の工場で空襲があって、貴女と逃げたやろ」「あの時のこと、覚えているやろ」「○○さんが火傷したあの時のことが、今日の夕刊に載っとるんよ」(ここは徳島弁です)という風に伝えられ、皆、戦中のしかも学生時代の青春を思い起こしたのです。

大好評に終わった「紅燃ゆる」に続いて、「サンパウロへの道」と題して、私の伝記を書きたいとの申し出を、私は丁重に断りました。新聞社の社長も「まだ現役で、小説ともなれば面白可笑しく恋の1つも書くことになるでしょう。生臭い話になっても迷惑だね」ということでした。

変りに出て来たのが「写楽・大江戸の華」でした。私の先祖。猪野左衛門知致を写楽に仕立て上げたのです。丁度生きた年号が、うまく合っていたのでしょう。続いて300年の眠りから冷めて、吹田文明が平成の写楽になるという2部合成を創り上げる予定が「写楽・江戸の華」で本人の寿命が尽きたという次第です。

このことで、徳島には「写楽の会」が出来、写楽の研究会やそれを活用する商店街、研究旅行も出来、ついに埼玉のお寺で写楽の墓を発見、全国紙に紹介されました。以上が、練馬区立美術館館長。若林覚さんにお送りした「写楽・大江戸の華」のお話です。

   

平成24年11月12日 吹田文明

ミュージアムグッズに新しい仲間誕生!

練馬区立美術館のミュージアムグッズに新しい仲間が増えました。

マグネットは、絵柄が3種類あります。

メモ帳は、こちら。

表紙は前向き。

裏表紙は後姿。

美術館でメモをとりたくなったら、こちらを活用してくださいね。

マグネット各250円 メモ帳 250円で販売しています。

これまでのミュージアムグッズ、「コットンバック」「パーツホルダー」「ノート」とともによろしくお願いします。

館長連載:私の美術漫歩第4回

第4回 音の宝石箱・サントリーホール誕生秘話

    

秘かに狙っていたんです。

プレゼンテーションの機会を。

それまで、周到に準備を重ねていました。

       

1979年秋から、サントリー世界マッチプレイ選手権(ゴルフ)の仕事で度々ロンドンを訪れていました。そこを拠点に、ヨーロッパのコンサートホールや文化施設を見て廻っていました。

そして確信を得たのです。

「サントリーはクラシック専用のコンサートホール、専属オーケストラ、多目的ホール、それに美術館から成る複合的文化施設(カルチャーコンプレックス)を持つべきだ」と・・・。

 そんな気運はありました。

・     創業以来文化・社会貢献活動に熱心

・     サントリー音楽財団設立と音楽賞の実施

・     クラシックのテレビやラジオ番組を提供

・     CMにも音楽や美術を積極活用

・     オーナーの娘婿氏が音楽賞受賞者で新進気鋭(当時)のチェリスト

などなどであります。

 しっかりした考え方といい場所さえあれば、オーナーは踏みきる筈だと踏んでいました。

      

 ときあたかも、森ビルの手による赤坂(A)六本木(R)開発(K)計画の話が洩れ聞こえてきました。森専務(当時・現会長)に会いました。

そしてARK計画(後ARKヒルズ)の中心に、是非とも文化施設を、との思いが強いと直に確認できたのです。

   

 1980年5月、日中国交回復後初の合作テレビドラマ「望郷之星―長谷川テルの青春」(サントリースペシャル)が放送されました。鄧小平氏が題字を書きました。

その制作の時、知り合った中国側プロデューサーに話してみたのです。

「天安門前広場をスタートして帰ってくるフルマラソンを沿道の風景・文化と人々の生活振りなどを交え日本の茶の間に届けられたらどんなに素晴しいか・・・・。」

 それが何と、2年後に「第1回北京国際マラソン」(サントリー協賛)として実現するのです。

そして、人民大会堂での開会式、釣魚台迎賓館での宿泊と国賓級の扱いを受けました。

 その翌年、第2回大会。

 

以下「新しきこと・面白きこと、サントリー佐治敬三伝」(廣澤昌著、文芸春秋2006刊)から転載。

 昭和57年9月、第2回北京国際マラソンの開催に合わせ、敬三は前年に続いて訪中し釣魚台迎賓館に泊まった。滞在中は、日本でのようにスケジュールが過密ではない。

ぽっかりと空き時間ができて、スタッフも敬三ものんびりと北京の秋を楽しんだ。

午後のそうした時間に、敬三は宣伝部の若林覚から声を掛けられた。

「なんや、若ちゃん」と怪訝な顔をする敬三に、若林は「お見せしたいものがあります」といって部屋に案内する。そこにはサントリーの幹部役員がいた。これだけ揃うと重要な決定はできてしまう。何をこやつは企んでおるのか。敬三はギロッと若林を睨んだ。

若林はボードを広げスライドを使い、企画書の説明をはじめていった。

これが、サントリーホールの最初のプレゼンテーションであった。

(中略)

コンサートホールだけでは採算が取れないとして、クラシック専用ホール、多目的ホール、美術館から成るカルチャーコンプレックスの案をまとめ、これを敬三にぶつけたのである。

敬三はこの時「おもろいやないか、やってみなはれ、但しフィジビリティスタディイをしっかり」と答えた。

  

 その後検討を重ね、結局クラシック専用ホールのみでいこうということになりました。

「世界一美しい響きを求めて」のコンセプトのもとに、サントリーホールと名づけられたのです。

 5年間の準備期間を経て、1986年10月開館。オープニングは満座が静まり返る中、佐治敬三館長がパイプオルガンの演奏台に上り、静にしかし力強く「A」のキーを押したのです。

 アドバイザーであったカラヤンは、この時体調を崩し来日できませんでしたが、1988年始めてサントリーホールの舞台に立ちました。そしてそれが、日本での最後の指揮でした。

この時のカラヤンの言葉

「まるで音の宝石箱のようだ」

 そしていまサントリーホールは

ウイーン  ムジークへラインザール

アムステルダム  コンセルトへボウ

ベルリン  ベルリンフィルホール

ニューヨーク  カーネギーホール     

 と並んで、世界屈指のホールと称されるに至りました。

 2009年11月、来日中のオバマ大統領はアジア政策に関する演説会場に、国会議事堂でも何処でもなくサントリーホールを選んだのでした。(アメリカ大使館に近く、警備しやすいということもあったようですが・・・。)

 サントリー美術館には、鎌倉時代北条政子が化粧箱として使っていたと伝えられている「国宝、浮線稜螺鈿蒔絵手箱」がありますが、サントリーホールはまさに「世界の至宝、音の宝石箱」とも言い得るのではないでしょうか。

 草創期に関与できたのは(実は提案しただけで、殆どは後人の努力による)、私の宝となっています。練馬に来て1年、小さくてもきらりと光る宝を少しずつ積み上げていきたいものです。

加油!加油!とご支援頂ければ幸いです。

            

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」13号、2011,7,1発行より転載

中村橋駅から美術館までのお楽しみ

現在開催中の鹿島茂コレクション1 グランヴィル-19世紀フランス幻想版画展に合わせて、中村橋駅から練馬区立美術館までの街灯にフラッグを設置しました。練馬区立美術館では初めての試みです!

グランヴィル化された動物達が美術館までの道のりをご案内します。

代表例を一つ

このフラッグ以外にもいくつかの種類があります。何種類あるか探してみてください。でも、歩道とは言え結構人通りのある道なので、気をつけてお歩き下さい。上ばかりみていると危険ですよ(^ー゚)ノ

フラッグを楽しみながら道を進んでいただくと、すぐに美術館入口です。

鹿島茂コレクション1 グランヴィル-19世紀フランス幻想版画展は4月3日(日)までの開催です。皆様のお越しを動物達ともどもお待ちしております!

館長メッセージ「ロゴマーク募集」

4月1日に、館長に就任した。

長年に渡って、広告の世界にいた。幾多の企業メッセージやロゴ・マークづくりに参画してきた。

直近では、サントリー美術館のメッセージ「美を結ぶ、美をひらく」、ロゴ・マーク「み」の作成に関わった。

しかるに練馬、開館25周年、それに相当するものがあったんだろうかと見廻してみた。

それらしきものはあるにはあるが、ちゃんとしたものはない。

丁度いい。開館25周年と新館長就任記念で、これから始めようと思った。

早速、コピーライターに、サントリーの「水と生きる」、サントリー美術館の「美を結ぶ、美をひらく」の古居利康氏。

 デザイナーに「SUnTORY」「虎屋」「united arrows」の葛西薫氏。

更に、「リクルート」「アイモード」「とらばーゆ」のナガクラトモヒコ氏に相談した。   

その後、試行錯誤を重ね、キャッチフレーズは「ときめきの美 いま 練馬から」に決まった。

「ときめき」には、二つの意味がある。「今をときめく」と「心、ときめく」だ。

次の25年に向けて、絶えず、今をときめく「旬の美」を提供し、一人一人に心ときめいて欲しいと願うものである。

そのためのロゴ・マークを、広く公募する。

葛西薫氏、ナガクラトモヒコ氏は選定側に廻った。

勿論、フィニッシュワークもして頂ける。

アイデアに満ちた、斬新で多彩な提案をお待ちしている。

    

館長 若林 覚

      

詳しくは練馬区立美術館ホームページ「練馬区立美術館ロゴ・マークを募集」をご覧ください。

  

展覧会だけではなく・・・

秋も深まり各地から紅葉の便りが届く季節になってきましたが、美術館周辺の銀杏もそろそろ色づき始めています。

まだまだ色づき始めたばかりですが、あと1週間~2週間で綺麗な黄金色に変わるのではないかと思います。ただ、何故かここの銀杏はいっせいに紅葉しないんです・・・。1本は綺麗に紅葉していても、隣の1本はまだまだ青葉のままなんてことも。それはそれで面白いのですが、どうせなら一気に紅葉して欲しいですよね。

      

また、美術館入口階段前は「美術の森緑地」と名づけられた憩いの場が広がっており、天気の良い日は皆さんベンチに腰掛けて休んだり、お子さん達と遊んだりと、思い思いに過ごされています。

夏の間は暑い暑いと言われ続けた練馬ですが、今の時期の晴れた日などはとっても過ごしやすいです。展覧会をご覧になった後は、ゆっくりとベンチで図録をご覧になったり、持ってきたお弁当をお食事になる、なんてとても気持ちいいと思いますよ!(ゴミ箱はありませんのでゴミはお持ち帰りください<(_ _)>)

今の時期美術館周辺は色づく銀杏を眺めたり、お子さんとどんぐり拾いをしたりと展覧会以外にも色々楽しんでいただけると思います。ぜひ練馬区立美術館へいらして下さい!

館長ラジオ出演です

当館の若林覚館長がラジオ番組に出演します!

番組はTOKYO FMで放送しているBLUE OCEAN(月から金 AM8:30-11:00)で、日にちは体育の日でお休みの10月11日です。
  
館長は前半(9時30分ごろまで)に出演し、美術館での楽しみ方をお話させていただく予定です。もちろん「稲垣仲静・稔次郎兄弟展」「池大雅水墨山水画展」の見所もたっぷりお話します。
  
いつもBLUE OCEANをお聞きの方はもちろん、普段はこの時間にラジオを聞けない方も休日のお目覚め後はラジオを80.0MHz TOKYO FMにぜひ合わせてください。楽しいお話が待っていますよ。

新作絵ハガキ販売中です

「タブロオ・マシン(図画機械)-中村宏の絵画と模型」展にあわせて中村宏さん作品の絵ハガキを作成しました。

↑左「HUDSON-C62」 中「似而非機械」 右上「サイドウインドウ」 右下「車窓篇 TYPE2(コックピット)」

また、当館コレクションの中から新たに4点の新作絵ハガキを作成しました。

↑左上:熊谷守一「猫」 左下:福井爽人「まどろみ」 中:清宮質文「早春の静物」 右:久野和洋「地の風景・かたすみ」

いずれも印刷業者さんと打合せ・校正を重ね、発色にこだわった絵ハガキたちです。(ブログの画像は上手く撮れていないですが・・・)

各100円で販売中ですので、当館にお寄りの際は受付横の物販コーナーをご覧下さい。

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