Archive for 8月, 2011

館長連載:私の美術漫歩第4回

第4回 音の宝石箱・サントリーホール誕生秘話

    

秘かに狙っていたんです。

プレゼンテーションの機会を。

それまで、周到に準備を重ねていました。

       

1979年秋から、サントリー世界マッチプレイ選手権(ゴルフ)の仕事で度々ロンドンを訪れていました。そこを拠点に、ヨーロッパのコンサートホールや文化施設を見て廻っていました。

そして確信を得たのです。

「サントリーはクラシック専用のコンサートホール、専属オーケストラ、多目的ホール、それに美術館から成る複合的文化施設(カルチャーコンプレックス)を持つべきだ」と・・・。

 そんな気運はありました。

・     創業以来文化・社会貢献活動に熱心

・     サントリー音楽財団設立と音楽賞の実施

・     クラシックのテレビやラジオ番組を提供

・     CMにも音楽や美術を積極活用

・     オーナーの娘婿氏が音楽賞受賞者で新進気鋭(当時)のチェリスト

などなどであります。

 しっかりした考え方といい場所さえあれば、オーナーは踏みきる筈だと踏んでいました。

      

 ときあたかも、森ビルの手による赤坂(A)六本木(R)開発(K)計画の話が洩れ聞こえてきました。森専務(当時・現会長)に会いました。

そしてARK計画(後ARKヒルズ)の中心に、是非とも文化施設を、との思いが強いと直に確認できたのです。

   

 1980年5月、日中国交回復後初の合作テレビドラマ「望郷之星―長谷川テルの青春」(サントリースペシャル)が放送されました。鄧小平氏が題字を書きました。

その制作の時、知り合った中国側プロデューサーに話してみたのです。

「天安門前広場をスタートして帰ってくるフルマラソンを沿道の風景・文化と人々の生活振りなどを交え日本の茶の間に届けられたらどんなに素晴しいか・・・・。」

 それが何と、2年後に「第1回北京国際マラソン」(サントリー協賛)として実現するのです。

そして、人民大会堂での開会式、釣魚台迎賓館での宿泊と国賓級の扱いを受けました。

 その翌年、第2回大会。

 

以下「新しきこと・面白きこと、サントリー佐治敬三伝」(廣澤昌著、文芸春秋2006刊)から転載。

 昭和57年9月、第2回北京国際マラソンの開催に合わせ、敬三は前年に続いて訪中し釣魚台迎賓館に泊まった。滞在中は、日本でのようにスケジュールが過密ではない。

ぽっかりと空き時間ができて、スタッフも敬三ものんびりと北京の秋を楽しんだ。

午後のそうした時間に、敬三は宣伝部の若林覚から声を掛けられた。

「なんや、若ちゃん」と怪訝な顔をする敬三に、若林は「お見せしたいものがあります」といって部屋に案内する。そこにはサントリーの幹部役員がいた。これだけ揃うと重要な決定はできてしまう。何をこやつは企んでおるのか。敬三はギロッと若林を睨んだ。

若林はボードを広げスライドを使い、企画書の説明をはじめていった。

これが、サントリーホールの最初のプレゼンテーションであった。

(中略)

コンサートホールだけでは採算が取れないとして、クラシック専用ホール、多目的ホール、美術館から成るカルチャーコンプレックスの案をまとめ、これを敬三にぶつけたのである。

敬三はこの時「おもろいやないか、やってみなはれ、但しフィジビリティスタディイをしっかり」と答えた。

  

 その後検討を重ね、結局クラシック専用ホールのみでいこうということになりました。

「世界一美しい響きを求めて」のコンセプトのもとに、サントリーホールと名づけられたのです。

 5年間の準備期間を経て、1986年10月開館。オープニングは満座が静まり返る中、佐治敬三館長がパイプオルガンの演奏台に上り、静にしかし力強く「A」のキーを押したのです。

 アドバイザーであったカラヤンは、この時体調を崩し来日できませんでしたが、1988年始めてサントリーホールの舞台に立ちました。そしてそれが、日本での最後の指揮でした。

この時のカラヤンの言葉

「まるで音の宝石箱のようだ」

 そしていまサントリーホールは

ウイーン  ムジークへラインザール

アムステルダム  コンセルトへボウ

ベルリン  ベルリンフィルホール

ニューヨーク  カーネギーホール     

 と並んで、世界屈指のホールと称されるに至りました。

 2009年11月、来日中のオバマ大統領はアジア政策に関する演説会場に、国会議事堂でも何処でもなくサントリーホールを選んだのでした。(アメリカ大使館に近く、警備しやすいということもあったようですが・・・。)

 サントリー美術館には、鎌倉時代北条政子が化粧箱として使っていたと伝えられている「国宝、浮線稜螺鈿蒔絵手箱」がありますが、サントリーホールはまさに「世界の至宝、音の宝石箱」とも言い得るのではないでしょうか。

 草創期に関与できたのは(実は提案しただけで、殆どは後人の努力による)、私の宝となっています。練馬に来て1年、小さくてもきらりと光る宝を少しずつ積み上げていきたいものです。

加油!加油!とご支援頂ければ幸いです。

            

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」13号、2011,7,1発行より転載

ミュージアムグッズが完成しました!!

このたび練馬区立美術館として初めてのミュージアムグッズが完成しました!

デザインは新しく完成したロゴ・マークを使用していて、種類はパーツホルダー、ノート、コットンバックの3種類です。

パーツホルダー(400円)はA5サイズがすっぽりと入る大きさです。仕切りが2つあるのでプリントを分けて収納するのに便利。

これさえあればきっとあなたもイケテル学生に d(゚-^*)

                

ノート(400円)は10cm×15cmで上着の胸ポケットにもすっぽり入りる大きさです。会議中や出先でメモをとるのにピッタリ。

これさえあればきっとあなたもイケテルビジネスマンに d(゚-^*)

                

コットンバック(800円)は30cm×35cmでA4サイズの雑誌もすっぽり入る大きさです。買い物のお供としてエコバックにも最適。

これさえあればきっとあなたもイケテル買い物名人に d(゚-^*)

               

               

ミュージアムグッズは美術館受付で好評販売中です!練馬区立美術館にお越しの際は是非記念にミュージアムグッズをお買い上げ下さい。

磯江毅展関連イベント 逢坂剛講演会「スペインの昨今」

台風が通り過ぎた後、一時の厳しい暑さはなくなりましたが、それでもまだまだ蒸し暑い日が続く中、7月23日に作家・逢坂剛さんの講演会が行われました。

これは現在開催中の「磯江毅展」の関連イベントとして催されたもので、美術ファンだけでなく、逢坂剛さんのファンがたくさん集まりました。

逢坂さんは若い頃からフラメンコギターにのめりこみ、プロはだしの腕前であることは、知る人ぞ知るところです。

そんな逢坂さんが初めてスペインを訪れたのは、1971年、20歳代後半のことでした。

グラナダに行ったとき、食事に入った店で、ギターを弾いていたおじいさんがあまりにも下手だったので、「俺に弾かせろ」とギターを借りて、演奏を始めたそうです。外国人など珍しかったと思われる時代に、いきなりフラメンコギターを弾きこなす東洋人が現れて、スペインの人たちもさぞかしびっくりしたことでしょう。するとその場にいたフラメンコの歌手が、「俺がカンテをやるので、伴奏をやれ」と声をかけてきました。

カンテ(歌)に合わせて伴奏をするのは初めての体験だったそうですが、意外にも、とてもうまくいったそうです。

スペイン語で「ドゥエンデ」という言葉があって、「精霊」とか「鬼」という意味だそうですが、アンダルシア地方では、「美の女神」「歌や踊りの神秘的な魔力」というような意味で使われています。

逢坂さんは「一芸に打ち込んでいると、ドゥエンデが来る瞬間があるというが、あの瞬間がそうだったのかもしれない」と回想していました。

当時のスペインはフランコ政権末期でしたが、スペインの人たちは人情が厚く、古き良き日本を思わせるものがあり、ますますスペインが大好きになったそうです。

磯江氏がスペインに渡ったのは1974年。その頃のスペインがどんな様子だったのか垣間見える楽しいお話の数々でした。

当日はギターの演奏はありませんでしたが、いつか機会があったら美術館の中央ロビーで演奏していただきたいものです。

ところで、逢坂さんはいつでもギターが弾けるように、爪のお手入れを欠かさないそうです。最近若い女性に流行りのジェルネイルがとても良いそうですよ。

練馬区立美術館では現在「磯江毅=グスタボ・イソエ」展を開催中です。磯江氏の作品もドゥエンデが宿っていると思わせるものばかりです。10月2日まで開催していますので、ぜひご来館ください。