Archive for 11月, 2012

アーティスト・トーク&特別講演会

現在開催中の棚田康司-たちのぼる。展はイベントも充実。今回はその様子をご紹介します。

棚田康司さんによるアーティスト・トークは9月22日と10月27日の2回行われました。特に10月27日はミヅマアートギャラリーのディレクター三潴末雄さんをお迎えし、対談形式によるトークとなりました。

三潴さんからは、ギャラリストとしての視点から棚田さんについてそして美術会全体について興味深いお話を聞くことが出来ました。棚田さんも三潴さんとのトークという事で当初は若干緊張気味の様でしたが、三潴さんとの出会いやドイツ時代のお話など色々とお話して下さいました。

集まった皆さんも熱心にお二人のお話に聞き入っていました。

                          

かわって11月17日は実践女子大学教授・武笠朗さんの特別講演会「日本の木彫像」を開催しました。特別講演会は10月6日に開催した暮沢剛巳さんに引き続いての開催です。

講演会では木彫に使用する用材の変遷など興味深いお話を伺うことが出来ましたが、なんと言っても武笠さんの仏像愛を感じられる楽しい講演会でした。時には席を立ってスクリーンの画像を直接指し示し、熱心にお話して下さいました。

あいにくの雨の中、熱心にお集まり頂いた皆さんも、武笠さんの「いいでしょ~♥」に笑顔で頷いていました(*^-^*)

棚田康司-たちのぼる。展は11月25日(日)まで練馬区立美術館で開催中です。皆様のお越しをお待ちしております!

館長連載:第9回私の美術漫歩

版画家・吹田文明、「写楽は我が先祖?」 

 

「うだつがあがる」という言葉の由来をご存知だろうか?

「うだち」とは、江戸時代、隣家の境に建てた小屋根付きの袖壁を言うらしい。

卯字型に張り出したところから「卯建ち」と言い、防火と装飾を兼ねたとのこと。お大尽でないと建てられず、装飾性と威容を競い合った。

そこから転じて、「うだつがあがる」は、立身出世、成功を意味することとなった。未だに、さしてうだつがあがらぬ小生はその「うだつ」を是非見てみたいと思っていた。

今年5月、徳島県鳴門市、大塚国際美術館での「全国美術館会議」参加を機に、今でも「うだつの」の街並みの残る美馬市脇町を訪れた。

江戸時代、阿波は名だたる藍産地。とりわけ、田沼意次時代、その藍は日本中に行き渡った。多くの藍大臣が生まれ、「卯建ち」づくりを競い合った。

街並みを歩くといかにも水戸黄門一行でも出てきそうなタイムスリップ感に襲われる。(現に、TVドラマのロケも行われた。)

同じ時代、草木染の木の皮の織布「阿波太布」も「日だまりのように、ほっこりとぬくもり、目で見るよりも触れて楽しむ。」と、大奥女中方に献上され、もてはやされた。その産地は、平家落人伝説の残る、剣山・祖谷渓である。

脇町の後、そこに向かった。剣山は1955m、四国第二の高峰であるが、登山路もよく整備されており、ハイキング気分で登ることができる。ただ、登山口までが長い。延々狭い山道を車で行く。谷は深い。蔓で編んだ「かずら橋」なども残る。

阿波藩、蜂須賀家は外様である。何度も、とり潰しの危機にあうが、それを救ったのが「藍」であり、「阿波太布」であったようだ。

そこに絡んで「写楽」がいた、という奇想天外な物語を紹介する。

版画家、吹田文明氏(徳島県生1926-)は、1967年サンパウロビエンナーレ版画部門で最優秀賞を受賞した。棟方志功、浜口陽三に次いで、日本人では三人目だ。長年、都内の小学校で図工の先生を務めながら、ラワン材を素材に電気ドリルで穴をあけ、水性絵具に加え、油性絵具を使い、プレス機で刷るという独自の木版画を完成させた。ラワン材のマチエール(メゾチントに近い)にダイナミックでカラフルな、それでいて奥行のある絵柄から「花火の男」と呼ばれた。最近の作品は、詩情性を湛え、哲学的、宗教的深みを増している。

2006年には、世田谷美術館と徳島県立美術館で、回顧展が開催された。

その吹田氏、2年前、練馬区立美術館「稲垣仲静と稔次郎」展に来館された。

稔次郎のファンで型絵染に興味をそそられたとのこと。その時、お会いできなかったが、後日図録をお送りしたら、お礼にと「写楽・大江戸の華」(H 13徳島新聞社 羽里昌 著)が送られてきた。

手紙には「写楽は我が先祖というフィクションです。ご笑納ください。」とある。

国際浮世絵学会では、斉藤月岑「増補浮世絵類考」や三世瀬川富三郎「緒家人名・江戸方角分」の記載もあり、写楽の正体は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛ということになっている。また新説が現れたかと早速手に取ってみた。

以下、その梗概である。

蜂須賀十代「阿波守重喜」は秋田佐竹壱岐守義道の四男、正胤である。藍の専売制、新田開発など藩財政立て直しに取り組んだが、その革新的、手荒い手法は多くの敵をつくった。時の権勢、田沼意次に訴えられ「藩政よろしからず」と、32歳で隠居を命ぜられた。その重喜に取り立てられ、改革を支えたのが、熊野屋与右衛門、お銀主を務める。次男が猪左衛門知致、熊野屋には旅の絵師が度々逗留、見よう見まねで絵を描く。

また、阿波は相撲大国。子供の頃から滅法強くて、本物の力士を投げ飛ばす程。

長じて、大藍師の娘、お貞を娶り分家、重喜のお側勤めをする。

土佐室戸岬に近い、日和佐浦にオロシア船が漂着、凸面鏡が重喜に献上され、デフォルメされた顔の写しに魅入られる。やがて、猪左衛門に下賜され愛用の品となる。

田沼意次失脚。その落魄振りを見ようと、重喜、隠密に江戸に行く。阿波太夫として遊興。吉原で、秋田藩佐竹江戸留守居役平澤常富(朋誠堂喜三二)にでくわす。山東京伝、蔦屋重三郎に紹介される。

「文武二道万石通」(喜三二作、喜多川行麿画)がご政道を批判したかどで絶版、喜三二、筆を折る。

重喜、遊興振りが問題になり、国元の小屋敷に蟄居。

猪左衛門、女房お貞、娘お国、相次いで没。気鬱に。

重喜「江戸に行け、芝居見物でもして好きな絵を、流派に囚われず自在にかけ。上方の風来絵師、東洲斎写楽と名乗れ。但し、阿波の名は出すな。京伝に会え。」と薦める。秋田蘭画の佐竹の出、ということもあり、絵心があったのかもしれない。

猪左衛門、お貞の7回忌まで帰ると約す。

江戸への途中、上方で阿波屋徳兵衛(お貞の叔父、育ての親)に会う。

上方、江戸の藍商筋支援の約定を取り付ける。

立作者、並木五瓶、立役者沢村宗十郎、に紹介される。

京伝が蔦屋へ連れて行く。阿波太夫、重喜をかいた絵を見せる。オロシア鏡風デフォルメだが、よく特徴をとらえている。蔦屋、仰天する。きれいにかくのではなく、真と感じたものをかく、これが写楽。今迄にない役者絵を、半身もので、ということになる。

「花菖蒲文禄曽我」(澤村宗十郎、大岸蔵人役)をもとに、最初の版下11枚が仕上がる。写楽、「売れもせん芝居絵で丸損させるわけにもいかん。」と自腹を覚悟していたが、蔦屋「虚の中に実がある。一生に一度、儲けを度外視した錦絵、黒雲母摺で。」と決断するも、この時既に、開版料、初摺料は阿波藩筋、藍商筋から用意されていた。

松平定信「寛政の改革」を推し進める。華美・贅沢・好色の一層の取り締まり。

京伝「仕掛文庫」「娼妓絹籭」「錦之裏」(版元蔦屋)、遊蕩・卑猥の好色本として発禁。

京伝、手鎖50日、蔦屋身上半減の闕所の荊に処さる。

お家の安泰を願う阿波藩、「危なくなったら、江戸の外へ出せ。正体を知られるな。場合によっては斬れ。」との命を出す。

阿波藩儒から、幕府昌平黌教官に転じていた柴野栗山、定信に「あれは華美ではない、わる癖を写した似面絵。立役、実悪、道化、端役も平等に扱っている。芝居の分らぬ他所者の手によるもの。」建言、面白がられこそすれ、譴責されなかった。

初摺当初はそれほど江戸市中に出回らなかった。その理由は

・重喜の命を受けた大阪阿波座、大量に買い付け、全国に向けた藍商いに土産としてつけた。

・大奥女中、芝居見物などできない、しかも男ひでり。歌麿流美人やきれいな女形に妬み、嫉み。かえって、男の臭いを感じとり大人気に。

・役者本人による大枚取得。立役、汚な絵、流布させたくない、端役、嬉しい絵、励みになる。

にあったようだ。

ところで、斎藤十郎兵衛。阿波藩のお抱え能役者。京伝が写楽に紹介した。

写楽、八丁堀六軒長屋。十郎兵衛八丁堀地蔵橋長屋、目と鼻の先、芝居好き、絵心あり、写楽の長屋で、絵をかくのを見ていた。いつか、本人と見まごうことなき絵がかけるようになっていた。

写楽、最初大首絵、寄りの世界。やがて芝居ごと投網を打つ引きの世界、芝居好きでないとかけない。そこに絵の腕を上げた十郎兵衛がいた。

写楽、女房お貞の七回忌が近づき阿波へ帰る。その後、十郎兵衛が暫くかいた。

つまり写楽は二人いた、という説である。(但し相撲絵は、一貫して写楽か?)

しかし疑問に思うことがある。同じ阿波藩お抱えの身。しかも猪左衛門、お銀主を務めるお側商人、重喜はじめ中枢にも近い、それがなぜ、京伝に十郎兵衛を紹介されなければならないのか?

さて、その写楽・吹田猪左衛門知致から数えて七代目が吹田文明氏である由。

「写楽、大江戸の華」には系図も載っている。

重喜、猪左衛門、文明氏、実在の人物だけに説得力がある。

写楽、文明氏ともに、新境地を切り開いた革新的版画家である。

更に、大首絵にでも登場しそうな偉丈夫な役者顔の文明氏。

「この物語、全て偶然の所産。うまく仕立てられたフィクション。」と一顧だにしないのは、あまりにもロマンを解さなすぎる。

小生、たまさか美術館長の職にあるが、もとより美術史の研究家ではない。

まして浮世絵の専門家でもない。単なる新し物好きな浮世絵ファンでしかない。

そのファンからの新・珍・奇説の紹介である。

狂おしいまでの暑かった夏を偲び、ウイスキーグラスでも傾けながら、暫し夢とロマンに浸っていただければ幸いである。

ところで、練馬にはどんな「うだち」を建てることが出来るだろうか?

  

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」18号、2012,10,1発行より転載

  

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吹田文明氏に上記原稿をお送りしブログ転載の許可をお願いしたところ、下記返信をいただいたので本人了解のもと紹介します。

<吹田文明氏からの返信>

「写楽・大江戸の華」を美術漫歩で取り上げて頂き、有難うございました。

ペンネーム、羽里昌君は、徳島県阿南市の出身で、富岡小学校の私より2級ぐらい下でした。戦後、ハンセンシ病となり施設に隔離されました。ハンセンシ病は戦前、癩病とかレプラと言って忌み嫌い恐れられ、隔離病棟に入れられ出産も許されませんでした。その有り様を書いた「命の初夜」、映画「小島の春」などで一躍有名になりました。

戦後、既にヨーロッパでウイルスが発見され特効薬も出来ており、感染力も弱いということが分かっていたにも拘らず、厚生省は戦前のまま放置したのです。

国境なき医師団の努力により、漸く施設を出て生活が出来るようになりましたが、古里も肉親も全てのものを失った羽里君にとっては、書くことしか自由な世界は残されなかったのです。

ある日突然、彼から「その後の坊ちゃん」という1冊と共に、自分が小説家として頑張っていることを、私に知らせてきました。夏目漱石のあの有名な「坊ちゃん」の主人公が、旧制富岡中学に赴任していたことが、職員室の金庫の中から履歴書として発見された事から始まる物語です。

彼にとって、帰ることの出来ない懐かしい富岡の町内を、私の本家を中心に書いています。

彼が子供の頃走り回った思い出の場所を、主人公も駆け巡ります。ユーモアのある文章の裏に彼の望郷の悲しみが見えるようでした。

電話をもらって「羽里君はハンセンシ病をやったんだろう・・・」「特効薬も出来て何ということもないことが分かっているのだから・・・」とあけすけに言う私の言葉に、電話の向こう側で厚い友情に言葉の詰まる彼がいました。

早速、彼の小説を、徳島新聞で社長をしている友人に紹介、夕刊に連載小説を書くことが決まりました。「紅燃ゆる」という題名の徳島全県下の学徒動員の記録でした。これは大好評でした。学徒動員に参加した人達が定年を過ぎた頃で、大阪、神戸と関西に嫁に行った人、東京に来ている多くの人達にも「尼崎の工場で空襲があって、貴女と逃げたやろ」「あの時のこと、覚えているやろ」「○○さんが火傷したあの時のことが、今日の夕刊に載っとるんよ」(ここは徳島弁です)という風に伝えられ、皆、戦中のしかも学生時代の青春を思い起こしたのです。

大好評に終わった「紅燃ゆる」に続いて、「サンパウロへの道」と題して、私の伝記を書きたいとの申し出を、私は丁重に断りました。新聞社の社長も「まだ現役で、小説ともなれば面白可笑しく恋の1つも書くことになるでしょう。生臭い話になっても迷惑だね」ということでした。

変りに出て来たのが「写楽・大江戸の華」でした。私の先祖。猪野左衛門知致を写楽に仕立て上げたのです。丁度生きた年号が、うまく合っていたのでしょう。続いて300年の眠りから冷めて、吹田文明が平成の写楽になるという2部合成を創り上げる予定が「写楽・江戸の華」で本人の寿命が尽きたという次第です。

このことで、徳島には「写楽の会」が出来、写楽の研究会やそれを活用する商店街、研究旅行も出来、ついに埼玉のお寺で写楽の墓を発見、全国紙に紹介されました。以上が、練馬区立美術館館長。若林覚さんにお送りした「写楽・大江戸の華」のお話です。

   

平成24年11月12日 吹田文明