Archive for 7月, 2013

館長連載:第11回 私の美術漫歩

半田也寸志 写真集「MIGHTY SILENCE 」(イタリア、スキラ社) 発刊に寄せて

半田也寸志さんとは、かれこれ20数年来の知己である。
出会った頃、氏は広告やファッションの新進気鋭のカメラマ
ンであり、私は企業の広告制作の責任者であった。その作品
には、独特の質感と深みがあり、物であっても、人であって
も、氏のカメラの前に立つと、たちどころに存在が見すかさ
れてしまうような凄みがあった。相手が本物であればあるほ
ど、深みをたたえ輝きを放つ。だからクオリティとストーリ
ーのある商品、生き様のしっかりしたタレント(モデル)でな
いと頼めなかった。
その後、私は広告からアートの世界に転身したが、氏は何か
につけ気になる存在だった。一昨年6月、久方振りにやって
きて「是非見てもらいたいものがある」と言って、やおら取り
出したのが今回の一連の作品だった。
ここ数年は、広告の仕事の傍ら、アメリカ各地の近・現代の
「鉄の建物」の幾何学的な紋様や無機的な光に魅せられ撮り
続けていたという。
3・11を聞き、すぐ帰国、いてもたってもいられず6500万画
素のカメラを担いで単身現地入りした。20日後のことだ。
写真については門外漢で、軽々なコメントを挟むのは差し控
えたいが、一目見て「痛い」と思った。
五臓六腑がひりひりする。彫刻家・詩人、高村光太郎(1883-1956)
のエッセイに「触覚の世界」というのがあるが、触覚は最も幼
稚で根源的な感覚であるそうだ。
美術であれ音楽であれ、優れたアートは触覚を刺激する。
写真のコピーを知り合いの若い女性に見せた。「帰らなくっちゃ」
と言ったきり絶句した。
被災地大船渡の出身だった。その後、1週間ほど帰って出て来
た。いや、出て来れなかった。故郷の自然、街、人の有り様
に、気分が塞いだまま立ち直れなかったのかもしれない。
人の心をふるわせ影響を与える、何とも罪作りな「痛い」写真だ。
平安時代に最澄(766-822)が開いた仏教の教えに「草木国土悉
皆成仏」というのがある。生きとし生けるもの全てに仏性が
あり、仏に成れる、というものである。近くに、世界遺産「中
尊寺」がある。1105年から100年に渡りこの地を治めた、藤
原清衡、基衡、秀衡三代により、大規模な造営がなされた。
戦乱で亡くなった全ての霊を、敵味方の別なく慰める仏国土
(浄土)を建設しようとするものであった。本尊は、西方浄土
にいるという阿弥陀如来だ。
京都の知恩院に、国宝「阿弥陀二五菩薩来迎図」がある。如来
を中心に二五菩薩が衆生を救い仏国土(浄土)に導くため来迎
するというものだ。
氏の写真に、人は写っていない。しかし、私にはその1枚1枚
に二五菩薩の来迎が見えるような気がした。草木国土、生き
とし生けるもの全て、瓦礫ですら、「痛み」から救われるのだ。
一連の作品はその後、国内で「20DAYS AFTER」として出版
され、作家伊集院静氏も「一人の写真家が震災という歴史の
中に立ち、何が私たちに起こったのかを告げてくれている。
それは黙示録のように地上の憂国の滅亡を叙述しているので
はなく、復興への光を見いだそうとする救世の写真集である。」
との巻頭言を寄せている。


国外では、ヨーロッパで最も権威ある美術出版社「スキラ社」
(イタリア)で注目され、「MIGHTY SILENCE-Images of
Destruction」として全世界に向けて出版された。
スキラ社の手がける日本人アーティストは稀で、最近のアー
ティストで、知る限りでは千住博氏、安田侃氏のみである。
3月11日、ニューヨークで出版記念会が開かれ、「ウォールス
トリート ジャーナル」「ニューズ ウイーク」などで掲載された。
しかし、どうだろう。「二五菩薩来迎」だの「救世の写真集」だの
買い被りすぎてはいないだろうか?
震災国・日本に生きる一人として、古くから氏を知る一人として、
返って過剰反応し過ぎたのではないか。くだんの女性の反応
も生まれ育った故郷の惨状を見せられたからであり、誰の写

真でも同じ反応だったのではないか。寧ろ、命からがら避難し
た被災者のアマ写真の方が迫真性があったかもしれない。
あらためて、日本を代表するアート系カメラマン18人の震
災写真を見てみた。クオリティの高低はともかく、それぞれ
のテーマ性が浮かんでくる。

「猛威をふるった自然とその後の静けさ・穏やかさ」
「直前まであった人々の暮しのにおい」
「打ち倒されだ巨大な建造物」
「捜索の傍らで進む復旧」
「立ち入り禁止の原発地域」
「喪失と立ち直りの家族」
「故郷の今・昔」などである。

しかるに、氏の写真には明確なテーマ性があるのか。確かに、
アート系のカメラマンの中では、誰よりも早く現地に行った。
衝動に駆られるままに夢中でシャッターを押しただけで、こ
れといったテーマ性はないのではないか。アート性も、ある
としたら、6500万画素の高精細カメラに助けられてのことで
はないか。報道にしては遅い。アートにしては浅い。いかにも
中途半端だ。そもそも、震災が、人の不幸がアートであるもの
か。その客観性こそ罪悪だ。スキラ社の出版も「人類の歴史に
残る大震災」の写真であったからであり、氏の作品の哲学性、
アート性、テーマ性が認められた訳ではないのではないか。
冷静に立ち返ると、こうしたシニカルな見方もできなくはない。
しかし、馴れ親しんだ故郷の写真を一目見て、生き方を変えざ
るを得なかった若き女性、一連の写真に「痛み」や「仏性」を感
じ、立場もわきまえず、手放しで賛辞を送った私。明らかに、
今、そこにあったその写真が、人に影響を与えた、これがアー
トでなくてなんであろう。と未だ評価は行きつ戻りつしている。
ところで、前述した「鉄の建物」をテーマにした氏のもう一つ
の写真集「IRON STILLS」も国内で、ADP社から出版された。
葛西薫氏装丁の71点を所載する美装の大判写真集だ。時代を
超えて堅牢たる佇まいを見せる鉄の遺構が堂々たる存在感で
迫ってくる。


日本人は、自然と一体になって生きてきた。しかるに、欧米
人は自然と対決して文明を切り開いてきた。その象徴が鉄だ。
しかし、鉄ですら自然の猛威の前ではひとたまりもない。「人
間がつくってきたものは、ほんとうにこれでいいのか?」という問
いを投げかけられている今、2つの写真集「MIGHTY SILENCE」
「IRON STILLS」の意味するものは何か。偶発的同時上梓を
僥倖と捉え、作家も鑑賞者も考えを深めてみてはどうか。
何か事が起きた時に、やみくもに無作為な衝動に駆られたり、
無防備な突出に出るのも、時として結構だ。しかし、その根底
にはいつもある種のテーマ性が流れていて欲しいものである。
氏の場合、それは人間共通の「痛み」であったり、日本人の「仏
性」であったり、更に文明史的には「人間がつくってきたものは
本当にこれでいいのか?」という絶え間ざる問いかけであるよ
うな気がする。
そうすることで、作品は、従来のクオリティに加えて、一層の
明確さと深みをたたえ、多くの人々の心をとらえ、後世に残っ
ていける真に「救世のアート」として昇華していくことができ
るのではないか。次の写真集の上梓が待たれる。 【若林覚】
<追記>
そうそう、テーマ性・アート性などあるものではない。かくいう私など
皆無だ。漫然たる日々の繰り返しだ。しかし、時には問いかけたいも
のだ。私の、あなたの、そして美術館のテーマ性・アート性とは何か。
*「MIGHTY SILENCE(スキラ社)」巻頭言を加筆修正しました。

練馬区立美術館サポーター通信「階(きざはし)」20号、2013.6.1発行より転載